トレドを訪れる際、注意すべきたったひとつのこと
(※トレド 2018年9月)
スペインを一日だけ訪れることができるというのなら迷わずトレドへ行け、ともいわれる都市。旧市街全体が世界遺産である。画家エル グレコが生涯の大部分をこの街で過ごした。
*アルカンタラ橋からアルカサルを見上げる
トレドは昔、西ゴート王国の首都。スペインが統一されてからも中心都市のひとつだったが、スペイン・ハプスブルク王朝最盛期の王、フェリペ2世がマドリードに遷都して後、その存在感はゆるやかに衰えていった。
*旧市街へ通じる門(この後、急坂が続く)
今回のトレド行は日帰りだったので、カテドラルとサンタ クルス美術館を訪れるのみという限られた旅程となった。
*カテドラル(トレド大聖堂)
カテドラルのなかの聖具室はさながらギャラリーである。バチカンのシスティナ礼拝堂を思い起こさせる造りでもある。目玉はエル グレコの『聖衣剥奪』だが、カラヴァッジョやゴヤも展示(?)されている。
*聖具室。奥にエル グレコ『聖衣剥奪』
サンタ クルス美術館は元慈善施設の建物を用いている。展示室の構成がその名のとおり十字形である。絵画と彫刻を鑑賞して後、パティオ(中庭)も見学できる。
*サンタ クルス美術館
ここで要注意なのは、中庭へ出る扉が一方通行で、館内に戻ること不可な点である。
僕は館内でおとなしくリベーラの画を観ているから先に中庭を見ておいでよと(ホセ デ リベーラは今回のスペイン行で好きになった画家の方のひとり)、家内を先に行かせたところ彼女は戻れなくなり、僕は知らずひとり沈思黙考の時間を楽しめたのだが、その後軽くけんかする羽目になった。ご注意願いたい。
*トレド駅はかわいらしい造りであった
旅する理由と世界を支配した人々のこと
(※2018年10月 帰路 カタールのドーハにて)
旅をする理由について
ジム ロジャーズは、投資で成功する秘訣はと問われて歴史を学べといった。世界をありのままに理解するように努めよと。だから僕は旅をする。
*バルセロナ港(2018年9月)
旅は頭でするものだと思う。
旅は準備するところから始まっており、むしろ準備しているときが実は最も重要な旅の時間であるといえ、そして帰国したからといって終わるものでもない。
その地の歴史、地理、言語、思考の様式。実際に訪れて見て初めてわかることがある。というかそういうことばかりである。
*サグラダ ファミリアとバルセロナの空(2018年9月)
実際に訪ねてみればそこは想像を超えた未知の国である。自分でも驚くくらいに好奇心が刺激される。旅先でその地のものを食べ、そこに住み働いている人と話し、その地の誇りとするものを見聞きする。どこまでも深い世界がそこにはある。
今回はスペインを訪れた。滞在したのはバルセロナとグラナダ、セビージャ、マドリードである。コルドバとトレドにも足を伸ばした。現地22泊の旅程である。さすがに日本が(正確には日本の食が、特にラーメン二郎が)恋しくなった。今カタールのドーハでこれを書いている(※) 。
※この記事は、2018年10月5日配信の楽しい投資ニュースレターを基に加筆したものです。
*ハマド国際空港(ドーハ 2018年10月)
都市が発展する条件について
それぞれの都市には特有の色があり、同じ国だからといって同質性を保っているかというとそうではない。むしろ国家の成立が後に来るのが普通であって、同じ国だからと同質性を求める方が不自然な歪みをもたらす。国家とは案外、不自然な存在であり概念であるといえる。
このことは今回スペインを訪れて強く感じたことでもある。カタルーニャ独立運動に現れるスペイン中央政府への反発は根が深く、フランコ政権時代の弾圧もそうだが同地の人々の怨嗟の思いの根はさらに古い。
*カタルーニャ州旗がいたるところに掲げられている(バルセロナ 2018年9月)
同じ国でも豊かな地域と貧しい地域がある。一定規模以上に発展する都市には特長というか条件があって、その第一が外部者に対する寛容さといえそうだ。インフラの整備、アクセスのしやすさも大事だがどうやらそれは二の次である。
*グラナダの街路・カテドラル沿い
その地を統治する者の考え方、方針が決定的に重要であって、それによって外からどのような人々が集まってくるかが決まる。
大切なのは寛容な政策を掲げる統治者、商売・金儲けのしやすさ、強い軍事力、治安維持能力、統率力。統治者が優しく善良なだけでは繁栄を維持することはできない。住みやすさを維持するためには統治の厳しさも必要といえる。
*オラニエ公ウィレム "オランダ独立の父"(ティッセン=ボルネミッサ美術館, マドリード 2018年9月)
価値を生み出すのは人であり、資源の有無は(あるに越したことはないのだが)二の次である。優れた人々の集まる都市が発展を遂げる。
さらにいえば外部要因も結構大事で、居住に困難を覚えた人々が新天地を求めるタイミングで外国人にも寛容だった都市に多くの人々が一挙に集まった。迫害を受けた人々が温かく受け入れてくれる地を求めて移動する。このことは昨年アムステルダムを訪れたときに強く感じたことでもある。
*アムステルダムの運河沿い(2017年6月)
多様な集団のなかに生じる問題とその解決策について
新たに人が集まれば軋轢も生じようがそれは当然の摩擦である。仕事でもなんでもそうなのだが多くの場合はコミュニケーションが鍵である。思うに起きる問題は9割方コミュニケーションの問題であって、コミュニケーションの不足が誤解や疑心暗鬼を招き、それがこじれて大きな問題に発展もする。
*3年前、難民受け入れを巡ってのデモを見る(ウィーン 2015年9月)
個人の間では距離感も鍵である。適切な距離を置くこと。異質な考え方・異質な行動様式の人々が身近にいたとしても、上手に距離を置いて接することで大抵のことは克服できるように感じる。やたらと関心を待てばいいというものでもない。健全な無関心というべき態度もある。
他者との関わりのなかでやむを得ず戦わねばならないときも確かにあるが、そういうときというのは案外少ない。
*イスタンブルの『ブルーモスク』スルタン アフメット ジャーミィ(2015年9月)
排他的な政策がもたらす結果について
ときに地域の同質性にこだわり、異質な人々を排斥する流れが生まれるときがある。自身に似た人々と暮らすのは楽かもしれないが、そのときから都市・国家は衰退への道を歩むことになるようだ。とはマドリードのプラド美術館でユダヤ教徒追放政策に憤慨するユダヤ人の姿を描いた画を見たときに感じたことである。
*プラド美術館(外壁修復工事中)(マドリード 2018年9月)
またスペイン ハプスブルク王朝の最盛期に君臨したフェリペ2世(肖像画がプラドに複数ある)は強烈なカトリック信徒であり、異教徒弾圧の方針を進めたことにより内外の反発・衝突を招き、国力を消耗した。とはいえ優れた実務能力により戦争にも勝ち、彼の統治下、帝国は最大領土を手に入れた。ただし彼の死後、国力は衰え続け三代を経て後、帝国は滅びた。
*フェリペ2世(プラド美術館, マドリード *Photo: public domain)
世界を支配したハプスブルク家について
世界史上、日の沈まぬ国となったのはハプスブルク家のスペイン帝国と、後のイギリス帝国のふたつのみである。
*ハプスブルク帝国の「女帝」マリア テレジア(ウィーン 2015年10月)
ハプスブルク家は現在のスイス発祥の小貴族。「争いは他のものに任せよ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と揶揄されるくらいに争いを避け、政略結婚を重ねた。その結果、血みどろのヨーロッパを支配、最後は世界帝国を築き上げた。頭角をあらわした家長ルドルフ1世から280年後のカール5世の代には日の没することなき帝国を手中に収めている。世界を手に入れるために必要な時間とはその程度のものだったともいえる(※スペイン ハプスブルク家はオーストリア拠点のハプスブルク家当主より相続)。
*カール5世が破壊に近い大改築を施したメスキータ(コルドバ 2018年9月)
力の分散を防ぐためだったのだろう、ハプスブルクの血を保ちつつ結婚政策を極限まで進めた結果、近親婚をくり返さざるを得ない状況となり、生まれる子は病弱で短命、最後の王は精神疾患を抱えたまま5歳で死去、王朝は途絶えた。スペイン ハプスブルクの世界帝国は2百年保たなかった。
*スペイン・ハプスブルク朝断絶後のスペイン王・カルロス3世像(マドリード, マヨール広場 2018年9月)
現代の日の沈まぬ国について
ところで現在、アメリカはその領土面で一日20時間の「日の沈まぬ時」を確保しており「ほぼ日の沈まぬ国」といえる。実質的な属国(どことはいわないが)を版図に入れれば史上三番目の日の沈まぬ国といっていいのではないか。しかも血の純潔にこだわってもいない。産業育成能力、経済規模、知的人材輩出の実績も頭抜けている。
*6年前に見物したホワイトハウス(ワシントン D.C. 2012年9月)
ウォーレン バフェットはアメリカの黄金時代はこれから始まるという見方を今も捨てていない。トランプ大統領の誕生により摩擦と混乱の種は増えているものの任期は4年でひとまず終わる。
ジム ロジャーズは今世紀を中国の時代というが、前世紀から続くアメリカの時代はまだ終わりが見えない。
*そういえばトランプタワーの前を通った(ニューヨーク 2012年9月)
アメリカの自浄作用は侮れないと僕は思っているのだが、もしもアメリカ ファーストなる方針を標榜し続け、外部者に対する不寛容な政策を継続するようであれば(トランプ再選となればそれは象徴的な出来事といえる)、その繁栄はピークを過ぎたと見て良いのかもしれない。
追記 2020.10.4
トランプ大統領について追記した。僕はトランプ大統領に対する評価を大きく変えた。
旅の準備について
旅は準備するところから始まっており、むしろ準備しているときが実は最も重要な旅の時間であるといえ、そして帰国したからといって終わるものでもない。
旅は事前準備がとても大事で知識がないと何も見えないし聞こえない。何も知覚できずに帰国することになると思う。何も知らず、下調べもせずに行った方が旅は有益だというひともいるが少なくとも僕はそうではない。
*グラナダの風景
旅先で最も思い出に残るのは常に現地の人とのコミュニケーションであった。旅の質を決める最大の要素がコミュニケーションであるといっていいと思う。
*飲みニケーション(バルセロナ、市場のバル)
そういう意味で、旅を楽しいものとすることにもっとも貢献してくれたのは言葉を教えてくれる本(スペイン語をど素人にも教えてくれる本)だった。
そして反省するに言葉の勉強はもっと早くから始めるべきだった。次の旅行が決まったのならその瞬間からことばの勉強を始めて良い。一年前に始めるくらいでちょうどよい。出発の日はあっという間にやって来る。
*旅の準備
他者とのコミュニケーションはもちろん大事だが、それ以上に自分自身とのコミュニケーションも大切である。知識をそれなりに蓄えることが重要になる。知識のあるなしで自問自答の質が変わってくるからだ。
人生の質を決めるのはコミュニケーションの質だ、なかでも一番重要なのはあなた自身とのコミュニケーションだ、とはある人に教わったことだが、このことはなるほどと素直に受け止めている。
*バルセロナ、王の広場
なので、その地の歴史を教えてくれる本はとても有難い。学術書は多々あるが素人が手軽に読めて、網羅的で、価格も手ごろという本は文字通りなかなかない。その点、明石書店の「~を知るための〇章シリーズ」は執筆者が重厚で内容も高品質で本当にすばらしい。今回もたいへんお世話になった。
*明石書店を尊敬している
スペインを訪れることなくしてここまでスペインの歴史を勉強する気になれただろうか。ここまで真剣にスペイン語を学ぶ気になれただろうか。旅から学ぶことは多々あるが、学びの意欲を格段に高めてくれる旅の効用というものをもっと意識していこうと思う。
また、あえて旅行先とは全く関係のない本も意識して持って行った。「曹操注解 孫子の兵法」がそれである。ランドリー店で洗濯しながら読んだ。
*マドリードのランドリー店にいたマスコット犬
持参した雑誌 The Economist 誌にリーマン破綻から一〇年後の今、信用収縮の発生とその後を振り返ってみればポピュリスト政治家の横行があるとあって、もちろんこれとはまるで関係のない曹操の記した孫子への注に
民衆を愛するのもほどほどにしないと悪質なたかりが横暴をふるってやりたい放題全部のつけを支払わされることになる(中略)無差別に民衆のエゴイズムを受け入れたらとんでもない重荷を背負って昼夜兼行で走り続けるようなもので (曹操注解 孫子の兵法 https://amzn.to/2L2zeUM 中島悟史著)
とある。これは孫子本文の
「私は人民を愛する」という理想主義の指導者は民衆に裏切られる
に対してのものなのだがなるほど、ポピュリストは自身が戴く民衆のエゴの重みに押しつぶされる結果になると示唆しているように思われて興味深い。
*旅先での洗濯も趣があった
というわけで今回記した旅行記に用いた参考文献は次の通りである。自分自身のための覚書として記しておく。
<旅先へ持参したもの>
<持参することは断念したもの> ※重過ぎるので
なお、帰国後興味が高じて購入したものも今回多い。次の通りである。
- イスラームから見た世界史
- イスラームの歴史
- イスラーム思想史
- ユダヤ人
- ハプスブルク帝国の情報メディア革命―近代郵便制度の誕生
- イギリスの歴史【帝国の衝撃】―イギリス中学校歴史教科書
- 世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界
- 大英帝国衰亡史
- イギリス近代史講義
実は次に訪れてみたいのはイランとイスラエルである。訪れずに死ねるかと思う。ということは明日にでも訪れる価値のある地域といえる(同時に訪れるのは難しそうな国々ではあるけれども)。
*次の準備
ところで、どの国へ行ってもイギリスの影が見え隠れして、これが太陽の沈まぬといわれた国の存在感かと感心する。そしてイギリスが植民地を手放したからといって彼の国の太陽が没したとは思えない。したたかに暗躍するのがあの国の本性であるように今も感じる。
*どこを訪れても英国の影がある(写真は2013年10月のロンドン)
プラド美術館とベラスケスのこと
(※2018年9月 マドリード)
マドリードには午後3時半に着いた。マドリードはヨーロッパ タイム ゾーンのかなり西に寄ったところに位置するので、日はまだ中天に高い。セビージャから高速鉄道AVEで2時間38分。車中はワインもガスパッチョもおいしく快適であった。
*アトーチャ駅。スペイン最大の駅
ホテルはマドリードのアトーチャ駅から1km程度なので歩くことにする。マドリードは基本的に平坦だと聞いていたのでちょっと舐めていた。そんなわけないのである。特にスーツケース持ちには石畳の箇所がきつい。キャスターへのダメージも気になる。昨年リモワを買ったとき、ショップの店員さんから「5年間の製品保証が付きます、ただし通常使用に限ります」といわれ、通常使用でスーツケースが壊れるとかないだろうとそのときは思った。しかし石畳はなるほどきつい。
*石畳
さらにいえば航空貨物として何度もぶん投げられているはずである。すでに複数個所のへこみが見受けられる。保証込みであるがゆえにあの値段なのだ。旅に出ると勉強になることばかりである。
*美術館通り。プラドを横目にホテルへ向かう
さて、マドリードで押さえたホテルはNHコレクション パセオ デル プラド。プラド美術館が道を挟んで真向かいにある。我々にしてみれば最高の立地である。
*ようやく着いた
チェックインしたのは夕方だったが、部屋に荷物を置いてすぐプラド美術館へ向かった。チケット売り場で年間パスポート(ミュージアムパス)を即購入する。ひとり36.06ユーロ(約4,700円)。マドリードに滞在するのは8日間の予定だがプラドには入りびたるつもりなので迷わない。
*ホテルからプラド(屋根)が見える
ちなみにプラド美術館には無料で入る方法があって、それには18時を待てばよい。午後6時以降は無料で開放されるのだ。気前が良い。その時間を待つ人々の長い行列が毎夕できる。
*行列
プラドの館内は撮影不可である。目玉はベラスケスの「ラス・メニーナス」。ディエゴ・ベラスケスは宮廷画家であり学芸員であり、最終的には官僚としても最高レベルにまで出世した人物。セビージャ出身。23歳のときフェリペ4世に見込まれて仕えることとなった。スペイン画壇の顔として、また世界最高峰の画家として、圧倒的な存在感を放つ。
*公式ガイドブックは日本語版も完備。19.5ユーロ。これは買って良い
プラド美術館にある作品の収集にはベラスケス自身が深く関与した。また雇い主である国王の許可を得てイタリアを2度旅した。旅行期間はいずれも数年間に及んだが王に呼び戻され泣く泣く帰国したとも。役人としても有能だったようで、当時画家としては異例の重職に抜擢される。
ただ出世して後は官僚の業務に忙殺されたようで、その後の画業における製作点数は激減した。
国王の信頼も厚く、王の娘の結婚式の責任者を仰せつかる。その大役を全うした直後、61歳で死去。過労死だったとも伝えられている。過労死してよい人物だったはずがない。
チップという難解な習慣について
(2018年9月 バルセロナ, グラナダ, セビージャ, コルドバ, マドリード, トレド)
こちらスペインでも、タクシーやバルでチップを払う。アメリカのようにチップが強要されるような社会ではなく、何か特別なことをしてもらった時などに1~2ユーロを支払うくらいで良いと聞いた。または端数のお釣りを残してくるくらいで良いのだとも。むしろ払い過ぎに気を付けろと持参したガイドブックには書いてある。
*バルセロナ、カサ ミラ前を走るタクシー
例えばタクシーで9.6ユーロと提示されて10ユーロ紙幣を渡し、お釣りは取っておいて(このスペイン語は覚えた)というもわずか40セント(約52円)である。こんなんでいいのかとむしろこちらが申し訳なく感じたりもするのだが、ドライバーは満面の笑みを浮かべてグラシアス!といってくれる。
*マドリード、美術館通り(Paseo del arte)を走るタクシー
思うにチップとは、あなたのサービスに満足したという感謝の思いを伝えるのが真の目的であって、金額の多寡はさして問題ではないのではないか。海外を訪れるようになってからずっとチップは難しい難しいと苦手意識を持ち続けてきたが、そう考えれば何となく腑に落ちるものがある。
*バルで大人気のサングリア
もっとも国によって捉え方は異なり、それ以上に人によっても異なるのかもしれないが。チップの習慣とは日本で生まれ育った僕にとって確かに異質な文化ではある。
*このグラッパがうまかった
そういえば以前、アメリカ辺りをふらふら巡って帰国した直後、携帯のイヤホンマイクが壊れた。
たしか池袋のビックカメラかヨドバシカメラだったと記憶しているのだが、そのとき店員さんは「この機種にはこれとこれが合います。こちらは合いません。いくつか試してみます?」と商品パッケージを開けて複数種類試させてくれて、そのなかから気に入ったものを選ばせてくれたのだ。
これに感動した僕は、当然チップを払うべきである、感謝の想いを伝える義務があると強く感じ、どうもありがとう、これをはチップですと500円玉を一枚渡した。そのときの彼の困惑した顔が今も忘れられない。
*チップはTPOをわきまえて
アルハンブラ宮殿のこと
(※2018年9月 グラナダ)
ナスル朝グラナダ王国時代の遺跡。丘の上というか山上の城砦である。実際に足を踏み入れてみればそこはちょっとした街のようでもある。
*山の上の城塞
1492年カスティージャ王国がグラナダを陥落させたことを以って8百年近く続いたレコンキスタは完了、キリスト教勢力はイベリア半島からイスラーム教勢力を地中海に追い落とした。
アルハンブラにはグラナダ市中心部から歩いて行ける(バスでも行ける)が、そこへ至る道は急坂でちょっとした登山の趣がある。グラナダ滞在中、アルハンブラ宮殿は2度訪れたが、いずれも徒歩で赴いた。さいわい天気も良かったし、緑のトンネルを歩いているようで心地良くもあった。
*急坂
坂の途中に「アルハンブラ物語」を著したアメリカ人ワシントン アーヴィングの像がある。19世紀に書かれたこの書物が世に出る前、アルハンブラ宮殿はただの廃墟としてほとんど顧みられることがなかった。この「物語」がベストセラーとなった結果、アルハンブラは再び注目を集め、いまやスペイン有数の世界遺産である。マーケティングが決定的に重要なのだということを教えてくれるいい話である。
*アーヴィング像
山頂、アルハンブラの門前に水場がある。この丘の上(というか山上)の水道施設は13世紀頃ナスル朝ムハンマド2世の統治下、半世紀以上かけて造られた。
*門前の水場。装飾はグラナダ陥落後のものでしょう
ざくろの彫刻が目を引く。アルハンブラだけでなく、グラナダ市内のあちらこちらで目にする。グラナダはスペイン語でざくろの意。街並みの様子が割れたざくろに似ていたからこの名が付いたという話が伝えられている。
*ざくろの彫刻(水場の右から3番目)
また堅固な城塞都市グラナダの陥落を象徴するものとしてキリスト教徒に多く造り置かれたともいわれる。ただ俗説は多い。
アルハンブラは、赤い城砦という意味のアラビア語、アル ハムラーが語源といわれる。たしかにこの周辺の土壌は赤みがかっている。これについても諸説がある。
*裁きの門から宮殿内に入る。この門には何やらまじないが施されているという
アルハンブラ宮殿見学にも予約は必須である。時間を指定して訪れる。指定時刻前には入り口前に長い行列ができる。予約なしでも興味深く見て回れるがやはり内部は見るべきである。
*アルハンブラの猫
ちなみにアルハンブラ宮殿敷地内には国営の宿パラドールがある。実はここに泊まりたかったのだがかなりの人気で予約が取れなかった。グラナダを訪れると決めたのなら何はさておいてもパラドールの予約から始めるべきかもしれない。
*パラドール サン フランシスコ
イスラーム建築様式の石畳が涼しげである。キリスト教圏の石畳とは風合いが異なる。
*涼しげな石畳
アルハンブラ宮殿のなかに「カルロス5世宮殿」なる場所がある。円形の中庭っぽいところでくつろぐ。
*カルロス5世宮殿。再征服者による増築箇所
建築様式が他と異なりおやと思うが、なるほどここはナスル朝が滅んで三〇年の後、神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世(カール5世)によって増築された箇所だった。この人物、コルドバのメスキータを大改築し、その後部下を責めるように嘆いたスペイン王カルロス1世と同一人物である。
日差しは強いのだが風通しが良く涼しい。丸く縁取られた青空がきれいである。グラナダは酷暑の地だがアルハンブラ宮殿は特に涼しい場所を選んで建てられた。
*ライオンの中庭
*ライオン像近影
壁に施された細密で精緻な幾何文様アラベスクが凄い。見ているだけで気が遠くなる。3Dプリンタが当時既にあったのではないかと考えねば理性が追いつかないレベルである。
*この写真を拡大して見てほしい
宮殿内は広い。想像以上に広い。本当にちょっとした街である。敷地内に公衆トイレはあるが数は少ない。やっと見つけたお手洗いは清掃中で男性陣が列を成していた。
*この掃除が長い。男の子は女性用お手洗いで用を足せるから良い
アルハンブラ宮殿はナスル朝歴代君主の手により約百年かけて造られた。その敷地は広大である。東に位置するヘネラリフェも必見の美しい離宮なのだがこれがまた遠いのだ。
*ヘネラリフェからナスル宮を望む。この辺りすべてがアルハンブラである
この広さを覚悟して訪れた方が良い。暑さ対策も大事である。
午後も遅くなった頃、アルハンブラを後にして下山、ホテル近くのバル(ラ リヴィエラ)で遅い昼食をとった。
*毎日訪れた行きつけのバル
日が暮れるとアルハンブラはライトアップされて夜空を背景に浮かび上がるような美しさを見せる。ダーロ川沿いの道を、夜のアルハンブラを見上げながら散歩した。警戒しながら歩きはしたが、特段、身の危険を感じる場面はなかった。
*ライトアップされたアルハンブラ
アンダルシア州はイスラーム教圏の人々がイベリア半島を指して呼んだアル=アンダルスを語源とする。キリスト教勢力による再征服の後、アラビア語の使用が禁じられた時代もあったが、スペイン語のなかにアラビア語を源とすることばは多く、当時の名残りが今も息づく。有名どころではアルコールもアラビア語起源である。
イスラームといえば近年、中東の過激な集団のイメージが強いかもしれないが、実際にイスラーム教圏の国々を訪れてみれば、穏やかな雰囲気のなか安心感を覚える場面が多い。イスラーム建築・装飾も素敵でその美しさ、洗練の度合には思わず息をのむ。
*アルハンブラの二姉妹の間、天井の鍾乳石飾り
おかしな人間はどの世界にもいる。偏った情報に触れ続ければ偏ったイメージを植え付けられ、偏見を生んでしまう。そうならぬよう気を付けながらこれからも旅を続けていきたい。
セビージャでもらったワインとマドリードの悲劇
(※2018年9~10月 セビージャ, マドリード)
セビージャに滞在したのは5日間。宿は ホテル ポサダ デル ルセロ。朝食会場のレストランにはCava(スパークリング ワイン)が置いてある。朝から呑めるのだ。
*朝Cava
<2018/09/25 09:15>
最終日の朝、理由はよく分からないのだがホテルの朝食レストランでお姉さん達からワイン(Cava)をもらった。
毎朝サーブしてくれていたふたりが「ミスターショウジ!」とやって来てボトルをくれた。手書きのメッセージカード付きである。
*びっくりした
<同日 09:25>
先に部屋に戻っていた家内に、レストランのお姉さん達にワインをもらったと伝えた。しばらくネットを見ているなと思ったら「そのCava高くないよ喜んじゃってやっす」というあたり、おっ可愛いなと少々思った。
<同日 09:29>
ちょっと浮かれてFacebookで自慢した。
*自慢
<同日 09:42>
すると投稿直後、ホテルの公式アカウントからコメントが来た。
*あらゆる言語を即翻訳できる時代である
<同日 09:43>
あのボトル、もしかして彼女たちからのプライベートな贈り物だったりしたらどうしよう?彼女たち、支配人から怒られたりしやしないだろうか...とコンマ2秒ほど悩んだ。
*そんなわけない
ところで再びセビージャに来るとして、僕はどのホテルを選ぶだろう。本音は迷わず同じこのホテルである。すなわちこれはリピーターを確実に生む手法といえる。今後ホテル関係者の方へコンサルする機会があったらこの営業戦術を伝授したい。
*男とは所詮その程度である(洞察)
<その八日後 2018/10/3 出国日の朝(マドリード)06:55>
セビージャのホテルでもらったワイン、良い思い出の品だと大切に包んでスーツケースにしまった。日本で飲もう。
マドリード バラハス空港のチェックインカウンターでスーツケースを預ける際、ぶん投げられて割れても困るな、機内に持ち込むか、と手提げカバンに詰め直した。
そして進んだセキュリティチェック、これは持ち込み不可だと取り上げられた。そりゃそうだ液体である。
疲れがたまっているぞと自覚したが、ちょっとした悲劇である。
*くやしくてビールを呑んだ