楽しい投資研究所の旅日記

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現代アートがわからない

現代アートがわからない。

マドリードではソフィア王妃芸術センターとティッセン・ボルネミッサ美術館も訪れた。ソフィアにはピカソゲルニカがある。ミュージアムパスで入れる。ティッセンはパスの対象外。

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*ソフィア王妃芸術センター

写実的な絵画はわかる。精緻に写実的でも写真とはちがう。受ける感覚がまるで異なる。この感覚はなんなのか。画家の技量以上の何かが込められているような気がしてならない。

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カタルーニャ出身のマリア・フォルトゥニによる「ロダリスカ(女奴隷)」

いわゆる近代アート・現代アートは今もわからない。ただの落書きにしか見えない。展示してある部屋や額縁の方がよほど立派である。落書きをなぜこうも仰々しく展示していられるのか。これに高い価値を覚える人がいて、さっぱり価値を感じない僕のような人間がいる。ダリはわかる。ルソーも何となくわかる。ピカソもごく一部の作品のみだがわかる。あとはわからない。

もしどこかの善意の人が僕宛に匿名で大判の現代アート作品を送り付けてきたらどうなるだろう?価値が分からない僕は悪質ないたずらだと憤慨し、粗大ごみ一直線となってしまうだろう。それどころか処分費用がもったいないからとのこぎりとカッターで切り刻んで捨ててしまうかもしれない。 

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*カラヴァッジョは好きである。

写真技術の普及が画家に与えた影響。二度の大戦が人の感性に与えた影響。戦争成金の存在。様々な要因が考えられるが、ひと昔前に比べて人の美的感性が衰えてしまったのではないかといつも考え込んでしまう。

僕が分かっていないだけなのだ。そう自覚した上で、理解しようと努めてきたのだが説明をいくら聞いてもわからない。説明を何度聞いてもわからないということは説明している本人が分かっていない可能性も考慮に入れなければならない。

逆に考えてみる。価値とは主観的なものだ。価値がよくわからないこと自体が価値を持つとしたらどうだろう?

租税回避の手段としてのアート作品、という存在意義もある。客観的価値評価の難しい美術品を高値で買い、画廊などを介して安く売り、譲渡損失を計上、課税所得を削る。複数の者の手を経て結局は元のオーナーのもとに納まる。オークションが開催されたりもするがそれは出来レースに過ぎない。 

こう考えれば落書きに異常な高値が付くことも納得できる。現代アートはコンテクストで考え評価すべきなどというわけのわからない理屈よりもずっとシンプルであり腑に落ちるというものである。

実際に取引が成立し高値が付いたからといって、そのことを以て作品に価値があると考えるのは早計なのだ。

日本の地方の美術館を訪れると、わけのわからない現代アート作品が仰々しく展示されていたりする。この作品を買った学芸員は果たして本当にその作品を理解し、価値を認識して、対価を支払ったのだろうか、そしてそのお金はどこから出ているのだろうかと少々苦々しく思ったりもする。